淺論田邊城之戰-導致西軍敗北的冷門戰役 环球报道

来源 : 哔哩哔哩 时间:2023-03-07 00:54:26

相關史料:

北村甚太郎覚書

田辺御籠城記

中村甚左衛門田辺籠城御使者一件


(资料图片仅供参考)

宮村出雲覚書

中村甚左衛門田邊御籠城御使者一件

一 九月末尓丹後御籠城為御見廻忠興公与十郎様ヨリ中根五郎右衛門小嶋弐左衛門ト申者両人関東ヨリ御登被成使者急キ田邊江着仕候得共敵之番稠敷候故城江ハ入マ申様無之所々海邊北ノ口道々案内者存候也夜半斗リニ忍ひ入関東より之御書を差上関東之様子審ニ申上候此事如何仕而敵方へ聞候哉城之東西北一夜之内ニもかりを結廻し其外壱間壱間ニ番屋を立番仕候海手ニ者番船数多敵方より置申候也又城中ヨリ者雲龍斎と云出家御籠城之様子関東江罷越し越中守様方へ申上所存然而城外ニ出候處敵之番稠敷聞而出候間敷由申候ど色々ト断出家之儀ニて候得者敵尓も味方ニも成申物ニてハ無之候是非共慈悲を思召出して給リ候得と申候得共出し不申然此上ハ少し雲龍斎色を変し然らハ是ニて打果し給王れ杯申欺しカハ理ニ■して出したる雲龍斎敵之前越訛り出て夫ヨリ直ニ関東江罷越し此事尚又敵方江洩聞け連共弥番所番所を堅稠敷小野木を初諸将中者双方共ニ東陳尓ハ備をのこし茂かり隙々出張之陳所を拵十重廿重ニ囲しカハ飛鳥ならでハ重而城外へ出へき様ハなりかたク城中之評議ニも如斯囲ミても敵ヨリ掛リ候へハ計を用ひ敵陳をも破り可申候へ共只此侭ニて日を送り候へハ飯責と相聞城中小勢とハ云なから兵糧尽可申し兎角各計略を廻らすべしと云あへ里幽斎公此事被聞召思召被附候事冬之拙者を被召人拂ニて密ニ被仰付然ハ■此之小城を大勢ニて囲ミ謀以城落ん事旦夕尓も冬らん城を出討死共思ひつ連共少思ふ事何連ハ其方儀已前北面之勤ども致候ト聞く何卒計略を以城を忍ひ出禁内へ参内し此儀相達しなハ籠城随一之功なるへしと御書を御渡ニ相成候ニ付早速御請申上陳所へ帰り受持候御矢倉頭堅メ之儀三刀屋麻生■宿此三人へ引渡夜半斗りニ楯の板をか津き城之水堀ニ忍ひ付水下を尻り既ニ赤松カ出張の前を越候節怪メられんとせしを運強くして三町余りの水下を尻り漸らく忍ひ抜け直ニ京都へ罷越候處田邊江勅使■被在との御■(古の下に又)ニ付拙者直ニ勅使之先拂仕田邊ニ罷帰候則勅使城江御入被成勅諚之趣述給ひ候得者左程稠敷囲イ居候敵陳之諸将小野木を初本国ニ帰り申候勅使城中ニ被為入幽斎様御對面被成種々御馳走相済八條様江幽斎様御自筆之■(古の下に又)古今集御伝授之■(古の下に又)被成候御短冊尓被詠候御歌ニ   古へも今もかわらぬ世の中尓ここ路の種越残す言能葉其後幽斎様御上洛被成候ニ相極り拙者儀も御供被仰付罷越候ニ相極り申候其外追々ニ御供被仰付候一  其後籠城之面々御前へ被召出何も今度之籠城ニ骨を折御満足被思召候皆々銘々屋敷へ引取小屋を懸け候一  かく云雲龍斎ハ関東ニ罷越忠興公を初其外々様方江御籠城之次第委敷申上候勿論関東御利運ニテ御帰陳之砌な連ハとなた様へも急キ御登り罷成候コト一  幽斎公御上洛被成候ニ付御供仕丹波の亀山ニ御宿被成候忠興公関東ニ而御手柄被成候而御登り被成候由最早大津迄御着被成候との飛脚参候野陳御懸被成御昇共御備被成源仁法印居城ニ御手遣被成三泊御陳之時幽斎公馬場ニ而忠興公其外々様江者相對面御双方御理連之儀御悦喜被成候亀山之城を忠興公御意次第と御諚意ニ付事相済夫ヨリ小野木縫殿助居城福知山御供銘々立帰互ニ鉄砲放合十日余御責被成候所小野木田邊之御城江為持参候大筒石火矢田邊へ捨置候ヲ御取寄被成候而小野木ノ城へ仕懸御打せ被成候小野木も難叶存候而城を相捨可申由御侘云申上候ニ付城御受取被成相済候得共小野木田邊之御城ニ而取分肝煎責申を御悪之被成り候而切腹被仰付候夫ヨリ暫く丹後へ御帰城コト  一  田邊御帰陳之上籠城之面々御前へ被召出種々御褒賞等被下候幽斎公拙者を被召出ニ而忠興公江被仰候盤今度之籠城ニ禁内江使を致候者ハ此者ニ而候ト被仰候忠興公被仰候を右之様子追々委ク承届候骨を折候トテ早速御自筆之御歌御腰物外ニ御自筆ニ而九様御紋子々孫々迄被下候旨拝領させられ難有仕合奉存候重而忠興公拙者江御意被成候物城を出候節往来共ニ楯之板を持往来致候儀御尋御座候ニ付拙者申上候者右之御使相勤候ニ付御堀之水下を尻り申候間見付鉄砲ニ而打申候節之為往来共ニ持申候然ハ右之板ハ私命代り之板故大切仕もち帰り申候ト申上候得者忠興公被聞召尤成申分懸レハ其方為ニ者運強キ板之己後其方定紋ハ板を付候ヘと被仰聞候拙者申上候を難有仕合ニ奉存候然し私定紋ハ輪之内ニ一之字を付来候間板は替へ之紋ニ附可申由申上候得共左様ニ仕候得と御意御座候ニ付本紋ハ一ノ字替之紋ハ板を附申候其後無程悴弥市被召出百五拾石火為拝領父子共ニ御奉公申上候事  右之本ハ私親中村甚左衛門覚書仕置申候    覺  一  私先祖中村甚左衛門儀田邊御籠城之節西之手支配被仰付候内 幽斎様御人拂ニ而被仰付候者禁内江忍之御使被仰付首尾好相勤候者籠城随一之功与被仰付候右ニ付敵之囲を忍ヒ出入候様へ罷出 勅使御先拂仕田邊へ罷帰申候其後従 三斎様御自筆之御歌左文字之御腰物九曜御紋子々孫々ニ至迄何所ニ不依着用仕然様被為拝領候右之訳を御上ニ茂委相分居候故先祖附ニ者書出不申候様 妙解院様御代被仰出候ニ付覚書を以御達仕候已上右中村甚左衛門儀 三斎様ヨリ被 仰付沢村を名乗り大学同姓同様ニ仕可申様被 仰出候儀別書ニ有之儀覚へ居申候右者兼而縁類も誉之ニ付而之思召之由ニ候右之記録紛失ニ付此書付井上平左衛門ヨリ借受写置候追而吟味致べき事天保十四年季春   文献雑録明治四十参年十一月武藤巌男ギ之武藤    借用致し被足候間八日ヨリ筆を取十一日迄ニ写之          盤桓老人七十五才之筆  上書出  北村甚太郎覚書と引合せ見るべし    右中村中村甚左衛門覚書壱篇五枚宮村氏盤桓随筆巻三所載也昭和十四年九月廿日写了     三望亭主人 上博書

守田邊城的傑出女性不只麝香,還有這位(不過她比較不幸沒有記載芳名......澤田次郎內室.......)然後裡面也講到眾人對玉子之死的哀嘆,以及麝香有戰死覺悟的內容

「一色軍記」

沢田次郎助内室の功績宮津市歴史資料館2005年春季特別展「古代中世の宮津」の展示解説図録の「資料・一色軍記 (竹野神社)」より、該当項を抜粋したものである。

慶長五年長岡藤孝、宮津・峯山・久美三ケ所之出張へ、忠興の息女并二人之妻、急き田辺に入城すへしと申送りけるニ、忠興之家士松井の内室野田遠方事なり、軍治る迄勝手よき山中ニ身をかくすへしと返答有、久美・峯山之城之玄蕃之守興元の内室ハ、法印の方より(*)入城之事申来る、老人の心遣はつかしく候得共、我さら/\田辺へ入城するこゝろにあらす、先度大(坂)表ニおゐて忠興内室自害有て、諸家の鑑ともなり、もふさるゝにも恥へき我身の上なり、たとひ大軍寄るとも、かたい/\と一所ニ戦ひ、城を枕ニ自害すへしと有けれハ、銘々玄蕃頭へ申訳なし、此度籠城中々続き申まし、城内の人数も凡四五十なり、さすれハ銘々ともニ討死ニ定りし所ニ而ハ、自害も奥方の手柄さら/\なし、幽齋公の差図に随ひ、一家中之女房娘を召連られ、思召も候て、田辺本城ニ而御名を後代にとゝめたもふへし、都而陣中ニ妻子の有ハ、却テ武士の義を忘れ忠をしく元なりと口をそろへて申ける、奥方此利にセまり、兎ニも角ニも仰ける、夫より(*)一家中の女房娘銘々調度を取集、かち若とふ足軽ニ弓鉄炮を運セ、奥方の御乗物、家中乗物十挺はかり三ノ丸ニ置候、時ニ沢田次郎助の領地ハ竹野網野也、常に儒を学、民百姓をいたわり申スゆへ、百姓打寄相談仕るハ、沢田殿の御恩いつの世にほうせんや、たとひ小野木殿より御咎を蒙るとも、我々ハ峯山ニ行て沢田殿の奥方へ、此度の御奉公申さんとて、若者とも弐百人余り口をそろへ、沢田殿御奥方御乗物何なりとも御用ニ立たし、沢田/\と三ノ丸の広庭セましと相詰ける、次郎助奥方ハ廿計なりしか、少もおくせち気色もなく、玄蕃頭殿奥方の御乗物を奥へ入、あヽとのらセ参らセ、其身は傍ニ引添て百姓ニ申けるハ、其方達能こそ参りもふされたり、此趣を次郎助ニ告ん、定て賞美申さるへし、世に誠有致方、沢田家の面目此上なし、是成る乗物こそ沢田の内宝(室?)也、静に扱御供されよと、玄蕃頭奥方の乗物かヽせ、扨召仕の女中を呼、是より(*)岩瀧の浜迄ハ纔三里余り、ましてろしのかふせきも覚束なく、誰々も駕籠を上ケてからにて入城セらるへしと、其身ハ紫おとしの小具そく着し、上には■■紅の小袖に縫薄したるを着し、裾小みしかくからけて、長刀引さやをはつし、奥方の輿に引添て、一家中の女房娘御乗物を引包銘々に得物を引提たり、沢田・正源寺殿はからひニ而、御供頭にハ西部伝左衛門ニ定、其外かち若とふ足軽打囲、程なく岩瀧の渚ニ至り、川船を奥方の御船に仕立、紫の幕を打ち■りニ、由良川の尻に着て田辺の城へ内案(ママ)、念入心静に暮方ニ入城して、幽齋夫婦妙庵の御目ニ懸り、籠城之よふを尋られける、幽齋沢田か妻のかたきはからひをかんしよふし、誠に次郎助か女房也と御悦ハ限りなし、此沢田次郎助ハ、天正十年之頃十六七才なり、又吉原城之時、大谷刑部左衛門但馬の国へ身をかくし、世のなり行を忍見んと、馬を進落行ける時ニ、若武者追かけ来りて申けるハ、夫へ打セ給ふハ一色之勇将と見奉る、返し合セて勝負あれ、斯申某は細川玄蕃頭か家来沢田出羽之守か嫡子、同名仙太良十七才之初陣なりと、馬を進追かけ来たる、刑部左衛門馬上よりつく/\と見とれ入、あらしほらしき若武者かな、我ハ義輝公の俗下なりしか、今一色家に籠りいる大谷刑部ノ大夫成家といへしものなり、平岡・長岡の戦ひに、玄蕃之頭・松井・有吉にあわをふかせ、三度までしり素けしハ某なり、一色没落次第、誰有て見るもの有ましと、但馬の国へしりそく也、しかし骨柄勇々敷若もの、成人の後思ひやる命和殿にまいらせん、いさ来れと言まゝに弐打三打合、大谷馬より飛て下り西に向う、合掌し仙太郎に申けるハ、某か帯たる大刀ハ、忝なくも義輝公数度功名給わつたる重宝也、則内兜ニ御墨付入置たり、是を添実検ニ出されよと情深く語置、沢田仙太郎ニ討れ相果る、興元此事を聞給ひ、大谷か武勇ひたすらおしみ給ふ、仙太郎ハ老臣の烈に仰出され、則網野の庵ニ八千石給り、名ヲ改メ沢田次郎助となり、後備へなり、慶長五年東国の出陣之時、沢田次郎助是なり、此人情深く百姓町人名残をおしみ、菅峠の麓迄送り、餞別の盃を献上ス、沢田大ヰに悦、扇開き忠則を舞レけれハ、百姓町人もしや朽花のしらセかと泪流しおしミけり   (了)

另外一個史料"三カ谷田辺記"

・・・・・・・・・・・・・・孝和深手蒙りけれども戰死を見て城中に入けるを誰が言ともなく孝和深手を負て終に果たりと聞えければ玄旨是迄なり自害すべしと有所へ三刀谷城へ入來れば玄旨手を折手思の外なりと喜悦せらる。内室竝興元の内室もなし孝和に戊樓より見申たり愍れ越中守に見せ申度事なり誰かある盃を持來れとある幽齋の曰く三刀谷殿は下戸なりと宣ふにより内室然らば湯漬を進ぜよと有により女房ども膳を持出湯漬を進ける内三刀谷の曰く今日大橋の邊にて紫縅に小具足着たる若武者いたく相戰ひ敵の首をも取して覺え候られ共近村申さず候へば姓名を聞ず何人の嫡子何か手柄の若者にて候と語る、興元の内室曰く今朝より澤田次郎助が女房みえず若武者是にてはあらずやとの玉ふ三刀谷が曰くいかさま若武者と許り存候へ共仰せられ候へば女にても有べしといふにより幽齋此よしを吟味し玉ふに程なく澤田が妻を迎へかへるに紫縅の鎧を着て無双長刀をかいこみ家來に打取つたる首を七ッ持せたり。幽齋を初めとして三刀谷御内室興元が妻も彼が働らきを感じ三刀谷と共に膳を竝べ饗応なし玉ひける。又孝和が下知して討取たる首卅餘級かきなければ内室は目を潜め興元の妻澤田が女房を誘ひ内へ入玉ひぬ。其後寄手城を圍めけれども幽齋妙庵孝和以下更に恐るゝ氣色なく部下二千五百餘人持口を定め身命を捨て籠城すかゝりければ寄手の將諸軍士を進め啓發を爭ひ又せめ近付幽齋妙庵持口を巡り敵兵を間なく寄來れども彼付入にするの氣遣有必突出すべからず弓鐵砲を放て頻りに射すくめ討すくめよ小勢を配り置たれば塀裏手うすき様なれ共更に危き事なきぞと父子入替て下知せらる。

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ここで注目すべきことは、澤田次郎助女房の働きである。澤田次郎助については■丹後舊事記・巻之五から(3)「慶長五年八月廿二日竹ヶ鼻城攻之事」(一)で書いたように竹ヶ鼻城攻に於いて戦死している。夫の無念に替っての働きであろうがまさに女丈夫である。

先強調一下,這場戰爭激烈程度自然是遠不如大津城攻防(可是承受著以立花宗茂為首的西軍猛將群連番猛攻),其戰略價值也略輸大津城,可是若要說這場戰爭是純粹的"虛假戰爭"其實也是不正確的.....畢竟西軍也有時間壓力(西軍領導層會甘願讓15000大軍浪費在田邊城長達兩個月怎麼想都是不可能的),後勤開銷也是很可觀的.....

另外根據田辺御籠城記,細川方有數名家臣武將因為守城戰死,可見即使不如大津城攻防,也不可能是雙方擺爛的戰役.....

源起

關於三成為什麼要出動大軍打在整個關原之戰戰略價值不是很高的田邊城,這若純以理性來考慮是很奇怪的事(雖然田邊控制著從丹後到京都通路的要道,可是考慮到裡面才區區500人,根本威脅不到附近的西軍。更何況西軍主力在京阪,田邊也難以威脅到主力從京阪到關原的路)

所以可能原因大概是2點

1為了控制藤孝逼忠興倒戈

原本三成在大阪發動人質作戰,要扣留住東軍將士的妻兒,可是隨著玉子自殺,加藤清正之妻,黑田長政的妻母逃亡九州,三成的人質作戰暫時受挫。

可是因為藤孝在田邊城,且守軍只有500人,要扣押他是容易的,因此三成就打算以他代替玉子當做威脅忠興倒戈的人質(或者甚至很可能當初三成的目標就是藤孝,這從細川家臣與三成的互動書信能看出來)

2私怨

三成對細川家是有私仇的,這與一位角色有關

福原長堯是三成妹婿,因為特愛打小報告,很多武功派的都被他搞過(黑田,細川,小早川等人都被他搞過……),忠興就因為被他指控為膽小鬼被秀吉沒收一部分知行……

後來秀吉與前田利家死後發生「7將襲擊三成」事件,德川出面調解,把本來福原在豐後杵築6萬石給忠興(忠興領地在丹後,這土地對他來說是飛地……不過既然賺到他也開心了

另外這杵築後來給手下重臣松井康之與有吉力行守,而在關原之戰前幾天爆發了與大友義統的攻防戰,成為了石垣原之戰的導火線)

這件事讓三成非常不爽……

三成就與其他奉行在書信上大罵「細川家毫無忠義之心,卻從福原手上奪取杵築6萬石,無法接受」

所以三成爲妹婿的「委屈」抱不平,這次出兵很大因素就是報私仇......

ps後來在關原之戰當天福原守大垣城,西軍大敗後,大垣城被攻下,他也因為武功派武將們的集體怒火最後被殺了……

開戰之前

在田邊城攻防戰開打前,藤孝在7/19得知玉子自殺的消息,他當即認識到自己將成為下個攻擊目標。

考慮到細川家在丹後的4座城池(由東到西分別是田邊,宮津,峰山,久美濱)各只有約百人守兵力極度不足,很容易被各別擊破,因此藤孝緊急下令其他3座城池立刻撤到田邊城並且放火燒城。

宮津作為當時細川家的根據地,裡面有不少細川家眷,例如忠興的側室們與女兒們,峰山城則是有忠興二弟興元之妻(沼田延元女兒,也就是麝香姪女),撤退很不容易……

這時候宮津的漁夫們幫了很大的忙,成功幫那些家人從海路撤到田邊(據說他們前腳剛走,後面宮津城就被西軍攻陷,可謂險象萬分……),也因此那些漁夫們得到藤孝的感激,事後給予他們自由補魚權,還教導他們劍術

至於最西邊的久美濱城,是由首席家臣—松井康之鎮守的城,可是因為康之要幫忠興守護遠在九州的飛地杵築城,因此他的城由忠興養父陸奧守細川輝經代守,因為處於最西邊離田邊城太遠,再加上……輝經竟然倒戈西軍了……,導致松井家人無法及時撤退到田邊城,在這危急時刻,康之之妻(麝香大哥光長的女兒,又是麝香的姪女)機智的讓嫡男興長之妻(忠興女兒,與側室生的)逃脫,自己則是與兩名家臣躲進山中。事後忠興追究養父的背叛行為就逼他切腹了.......

關鍵人物:三刀谷孝和

三刀谷孝和は毛利氏に仕えた出雲の土豪三刀谷(屋)久扶の子で、父久扶が毛利輝元に疑われて出雲から追放されたとき、まだ幼かった彼は安国寺恵瓊の元で育てられ、成人後は毛利氏に従って朝鮮役で活躍した。しかし本領が安堵されなかったため同家を去り京都洛外吉田山に隠棲、その神官吉田氏を通じて縁戚である幽斎と交際が始まったという人物である。彼は安国寺恵瓊から旧主に復帰して丹後攻めの先鋒を務めるよう勧められ、大坂方が丹後攻略を意図していることを知る。しかし彼は幽斎との交誼を重んじ、加えて亡父久扶が家康に味方するよう遺言したこともあり、幽斎に殉ずる決心をした。そして一族郎等二十人を率い、田辺入城の道を選んだのである。関ヶ原の「義将」といえば大谷吉継や平塚為広が有名だが、スケールこそ小さいが、丹後田辺にもこういう人物がいた。

三刀谷原本是效忠於毛利家的小豪族,可是父親久扶被輝元懷疑而被流放......所幸安國寺惠瓊悉心照顧孝和,還讓她參加征朝戰役

照理來說面對這樣的養育恩人,孝和無論如何都要參加西軍吧(而且惠瓊還真的主動邀請她參加攻打田邊城的部隊,這件事很關鍵等會會提). 可是因為父親對毛利家的反感(畢竟被流放了.....)而且雖然在朝鮮有戰功,毛利家卻沒給她應得的知行,再加上經過吉田家與細川家聯絡甚密,與藤孝關係良好,因此在關鍵選邊問題上,老爸指示孝和要參加東軍,而孝和忠實的遵從了(不久父親去世......)

後來惠瓊主動邀請他加入西軍(可見惠瓊也算是念舊),可是在得知惠瓊要他參加田邊城攻擊部隊後,他二話不說緊急帶領家人30餘名前往田邊城,告知藤孝西軍即將攻擊的情報(當時是19日)

可以說,孝和透露這個情報,給藤孝更多時間準備,才得以面對之後的以寡敵眾的守城戰(雖然這也多少有些三刀谷自己的自吹.....藤孝從其他訊息也可以得知西軍不穩跡象)

而後三刀谷身先士卒,英勇奮戰,尤其是夜襲圍城主將小野木重勝很精采,戰後雖然忠興想要給予他1萬石知行,他卻辭讓了,

他事後的回憶錄"三刀谷田邊記"是研究田邊城之戰的關鍵史料

女中豪傑:澤田次郎助之妻的事蹟

「一色軍記」部分看最上面

■丹後舊事記・巻之五から(8)「田邊城攻の事」(四) 

孝和深手蒙りけれども戰死を見て城中に入けるを誰が言ともなく孝和深手を負て終に果たりと聞えければ玄旨是迄なり自害すべしと有所へ三刀谷城へ入來れば玄旨手を折手思の外なりと喜悦せらる。内室竝興元の内室もなし孝和に戊樓より見申たり愍れ越中守に見せ申度事なり誰かある盃を持來れとある幽齋の曰く三刀谷殿は下戸なりと宣ふにより内室然らば湯漬を進ぜよと有により女房ども膳を持出湯漬を進ける内三刀谷の曰く今日大橋の邊にて紫縅に小具足着たる若武者いたく相戰ひ敵の首をも取して覺え候られ共近村申さず候へば姓名を聞ず何人の嫡子何か手柄の若者にて候と語る、興元の内室曰く今朝より澤田次郎助が女房みえず若武者是にてはあらずやとの玉ふ三刀谷が曰くいかさま若武者と許り存候へ共仰せられ候へば女にても有べしといふにより幽齋此よしを吟味し玉ふに程なく澤田が妻を迎へかへるに紫縅の鎧を着て無双長刀をかいこみ家來に打取つたる首を七ッ持せたり。幽齋を初めとして三刀谷御内室興元が妻も彼が働らきを感じ三刀谷と共に膳を竝べ饗応なし玉ひける。又孝和が下知して討取たる首卅餘級かきなければ内室は目を潜め興元の妻澤田が女房を誘ひ内へ入玉ひぬ。其後寄手城を圍めけれども幽齋妙庵孝和以下更に恐るゝ氣色なく部下二千五百餘人持口を定め身命を捨て籠城すかゝりければ寄手の將諸軍士を進め啓發を爭ひ又せめ近付幽齋妙庵持口を巡り敵兵を間なく寄來れども彼付入にするの氣遣有必突出すべからず弓鐵砲を放て頻りに射すくめ討すくめよ小勢を配り置たれば塀裏手うすき様なれ共更に危き事なきぞと父子入替て下知せらる。 

ここで注目すべきことは、澤田次郎助女房の働きである。澤田次郎助については■丹後舊事記・巻之五から(3)「慶長五年八月廿二日竹ヶ鼻城攻之事」(一)で書いたように竹ヶ鼻城攻に於いて戦死している。夫の無念に替っての働きであろうがまさに女丈夫である。

在藤孝緊急命令各地細川勢力集中到田邊時,有一名女性不得不提,那人就是澤田次郎助的老婆(可惜她的故事只出現在三刀谷的紀載與一色軍紀,細川家記中,而且著墨不深,甚至連芳名也沒留下......很可惜......)

根據三刀谷,一色軍記,丹後舊事記等史料記載,澤田次郎助為細川家臣,擁有知行,夫妻兩人常常教導領地百姓"儒家的忠義之道",使得百姓知道"捨身取義",因此在藤孝緊急命令丹後國撤退到田邊城,可是百姓因為太過驚慌四處逃跑之際,澤田知行內的百姓卻主動跟隨澤田次郎助的夫人,這位女傑不僅在短短2天招募到200人(不過或許並非全部都參與了後來的田邊守城),還能籌備20副武裝(雖然應該是輕裝甲之類的簡易武裝),因此當這位女豪傑到達田邊城時,受到了藤孝夫婦接見,藤孝還現場寫了一手和歌送給她

之後她率領自己的手下奮勇作戰,她"身穿紫色(輕)鎧甲,手握無雙長刀",在一場戰爭中甚至親自斬下7顆首級,後來她以這形象與手下拿著那些首級給藤孝夫婦過目,獲得了極大讚賞

可惜的是之後就沒有她的記載了.....要不是三刀谷等人願意記錄她的事蹟,我們現今就無法認識到這位女中豪傑了......

PS她的老公在忠興本隊中,後來在攻打竹鼻城戰死......也就是說這位女豪在守城過程中變成了寡婦.......也不知道她是否有小孩,是否再嫁了......

有人說,她根本就是平陽昭公主+李秀的綜合(雖然是弱化版)

田邊城周邊的地形

田边城位于现今的京都府舞鹤市西部("舞鹤"这个地名其实正就是从田边城的雅称"舞鹤城"来的呢,虽然这雅称是在江户时代才出现的。据说,田边城之所以得名“舞鹤城”,是因为它呈南北长形,从东面的白鸟关望去,犹如飞鹤一般),周边四面环绕着丹波高地,代表山是位于与福井县交界处的青叶山,也被称为“若狭富士”。市区内还有海南岳、赤岩山等600米级山

此外,市区的大部分地区被森林覆盖,并且有许多河流例如由良川、西舞鹤市的高野川、伊佐津川、东舞鹤市的夜幌川和白乐河等.北临日本海的若狭湾,舞鹤湾是海湾的最深处。可说是三面环山一面临海,四周低洼且充满泥沼的易守难攻之地

田邊城之戰前的情勢

丹後舊事記・巻之五から(5)「田邊城攻の事」(一)     「田邊城攻の事」(一)          大老奉行の面々大阪に於て評議しけるは丹後侍従忠興近年内府へ親み幼君に對して疎略なれば此度の企を聞とも定めて内府の味方すべし急ぎ丹後へ軍勢を差向老父幽齋を攻るに於ては越中守玄蕃頭父が艱難を救はんため其志をひるがへし日頃の科を陳謝せんか若然らずば諸人見せしめの為渠が城を攻略し父幽齋に腹切らせて丹後一國を治むべし。然らば丹後福知山城主小野木縫殿介を陣將として

生駒左近(雅樂頭陣代)     石川紀伊守    前野但馬守           谷 出羽守    川勝右衛門尉          織田上野介    山名主殿頭           藤掛三河守    長谷川 鍋           高田河内守    毛利勘八郎           早川主馬頭    毛利民部太夫(毛利勘八郎と重複か)  杉原伯耆守    別所豊後守           小出大和守    赤松左衛門尉          山崎左馬介    前田玄以法印

丹後、丹波、播磨の軍勢凡一萬七千人丹後へ發向あるべきとなり(中略)去程に小野木縫殿助の諸將七月廿日に丹後國境に陣を居翌廿一日田邊より一里此方なる福井山に陣を取小野木は圓立寺を本陣となす是より先に宮津、久美峯山城をせむる播州立野城主石川紀伊守杉原伯耆守なり。かくて七月廿ニ日より田邊の軍始りければ京都より加勢に入し三刀谷監物陣頭に顯れ召連來りし一族五百卅人を城兵に差添へ持口を固め大探馬に出ければ忠興の家士山本三四郎主人の命に叛ひて其頃浪々の身と成しが三刀谷が馬の口にすがり何卒貴君の手に付て相應の心はせおもあらはしたしといふ、三刀谷孝和許容して三四郎を途中よりもの見に遣す此時海上をみれば船二艘にて福井の方へ趣く者あり是玄旨の家臣麻野吉左衛門なるが朱の鹿の角の立ものにて船頭に控へたり谷出羽守藤掛三河守河邊に下由嚴敷鐵砲を打かけるに依而麻野吉左衛門引色になる、孝和此時三刀谷與三輩のもののみ相添山蔭に隠し先鋒佐方與右衛門二陣佐方平左衛門三陣孝和四陣油語彦兵衛如此列を調べ閑々と兵を進む、谷出羽守藤掛三河守三刀谷が逼るを見て福井の濱より横合に馳係る孝和態と一町許引退く敵勝に乘て間荒に馳來りて伏兵の前を通る時三刀谷與三鐵砲を放て突かけ孝和も返し合せ攻軍を追立首三十餘組打に取て馬を斑す。孝和油語彦兵衛に下知して森蔭に旗を立させれば敵大勢なりとや思ひけん跡より附來らざるによつていよ/\事故なく引拂ひけるとなり。

隨著玉子自殺,三成針對細川家的第一步失敗了,可是三成也已經準備大軍進攻細川的丹後國(玉子自殺19日,田邊城被圍21日,可以說三成很早就有對細川動武的想法,而幾乎同時他也試圖挖位於九州杵築的松井康之倒戈,針對意味十足)

因此以三成重臣島左近女婿小野木縫殿為主將,前田茂勝(五奉行前田玄以子)為副將,共17000大軍從四面八方攻擊丹後國,因為細川留守兵力微寡,藤孝當機立斷放棄其他地區,全部集中於田邊城,因為周邊幾乎都是西軍勢力,可以說是四面楚歌,因此三成在給昌幸的書信中得意洋洋地說只要數天就能完全佔領丹後(結果沒想到拖了2個月不說,結果17000就因此趕不上關原......間接導致西軍戰敗......)

關於田邊城攻防的夜襲

又或夜攻軍                     

の陣中何となく騒出ければ三刀谷孝和急に城を出けるを幽齋信志作左衛門( 進士(幽齋室・麝香の妹の子))を使者せずして剰へ御邊も爰にて鑓を合せよと云により作左衛門も力なく三刀谷が備に止りけるを玄旨又子息妙庵を遣して敵附く患なし平に引取べしと有りけるにより監物終に引返す。或夜孝和又下部を卒して伊佐津の松原に至り佐方與左衛門に伏し兵を添へて松原に残し其身は從兵竝玄旨の扶持せられし伊賀田(甲か)賀の者共を召連て谷出羽守が陣営に至り忍びの者に火を放させ透間なく切入りけれど出羽守敗北に及びけるを孝和下知して首を取さす、輕く引て城中に入玄旨は孝和が此夜討を感じて酒肴を送り子息妙庵を以其苦勞を謝せらる。七月廿五日寄て城近くせめ寄る小野木縫殿介谷出羽守藤掛三河守石川備後守赤松佐兵衛尉毛利甚八郎生駒左近大夫等は大手へ向ひ、小山大和守前田主膳正川勝右衛門尉毛利民部大輔等は搦手へかゝる、高田河内守別所豊後守早川主馬首山崎左馬允杉原伯耆守等は海手へかゝる。三刀谷監物敵の有様を見るべき為に大橋の邊へ出て采女の曲舞を高聲に謡ひければ文句不可なりと嫌ひければ三谷の風は吹くとも山は不動と云處を謡ふて控へけるは谷出羽守先夜宵揬に合たるを口惜く思ひ部下の者を下知して城戸を攻破らんとするを監物自身鑓を提げ手の者を勵し暫く寄手をふせぐ、三刀谷與三木門の外へ出んとするを監物與三が草摺を取て引留ける敵の鑓與三が腕に當て倒れける倒れながら城戸の外へ馳出て寄手と相戰ふ幽齋の家臣村上久右衛門は太刀打して敵を欺き上羽佐衛門は射藝に名有者成しが弓を以て敵を射拂ひ其外三刀谷が手物命を捨て拒みければ寄手是を退けれども脇より込入孝和跡を犱切けるによつて三刀谷属兵を節度にして引返し敵兵を拂ふて城内に引退しに小野木縫殿介又手物を下知して大橋の前へ寄來る、急で大橋を孝和が下知して板一間引放し堅に(竪か)渡し置たりしが其板を渡り門外へ出んとするを作方(佐方)吉右衛門三刀谷が男の袖にすがり敵多兵なれば必定御討死と覺えたり敵の位を許り候といへども孝和一向承引せず其身力量ある者なれば吉右衛門が上帯を取って提其方も鑓をせよと云て彼橋を渡り門外へ出る吉右衛門が曰く譜代の主君は貴公也當時の主君は玄旨なれば此時に當り討死せる事本望なりといふて敵をふせぐ

關於三刀谷在他事後的回憶錄中提到曾經夜襲圍城方總大將小野木縫殿的營地並且頗有斬獲(獲得30餘首級,造成西軍混亂),現在有些學者質疑可信度.....因為當時兵力差距懸殊.......而且做為當事者,他也多少會老王賣瓜自賣自誇.....

可是另一方面,如果坐等西軍進攻,等於是把主動權讓給對方,此外弱勢守方以奇襲震撼打擊強大的攻方也是有實際案例的(最有名的自然是張文遠VS孫仲謀那場合肥之戰),所以夜襲的可能性是有的,可是效果有沒有那麼大就難說.....

另外,後來部分圍城部隊發"空鐵炮",卻能為麝香得知並且做好記號,考慮到如果沒有事先聯絡好很難得知對方發空砲(萬一有子彈呢.....).如果不是事先聯絡好是應該不會有這樣的默契的,可是又考慮到雙方很難有機會連絡(後來北村甚太郎從田邊出城向朝廷求救還得偷偷出去......)很有可能雙方的聯絡機會就在那次夜襲期間

註:標紅色的部隊就是後來"發空砲"的那些XD

田邊攻防戰的激戰過程

■丹後舊事記・巻之五から(7)「田邊城攻の事」(三)  佐方 細川幽齋 彼吉右衛門は久敷玄旨の側に奉仕して歌道を學び耳底記にも其名顯はれたる者なれば此籠城に般々探有しや又監物が門外へ出る時久下太郎助人に先立ち馳出る、此久下は設樂庄市場の生れにて高濱の城主逸見駿河守が一族なり天正の頃市場城に籠り駿河戰死の後田邊の田家に忍び有けるが古主の仇なる細川に從ひ此時籠城せしとかや。斯て孝和諸兵に力を附べくや思ひけん攻軍の手竝は能く知たりわが鑓一筋を以敵戎を近なひけん事は大圑扇を以蠅を追如くならんと云て後ろを見れば紺屋の内に當り麻野吉左衛門・篠山五右衛門あり、孝和兩人の方へ軍使をはせ此所へ來て敵を防ぐべしと云送りければ麻野吉左衛門走來り此所を討取べしと雖も孝和更に同心せず然る處に敵むら/\に進み來るを孝和鐵砲を以先に進みたる敵を討たんとするに立滅せしかば鑓を捕て彼敵に立向ふ適時佐方庄左衛門横合より鐵砲を以彼敵を打破らんとす、然れども敵兵續て馳せ來りて孝和脇差を抜て敵兵三人手の下に打潰す彼三刀谷が指たる刀は高麗蔚山に於て孝和戰功有し時宰相秀元より賜りたる文宗の銘刀なり。孝和に勵まされて身命を惜まず防ぎければ敵此所を引取て町屋の屋根へ上り暫く鐵砲を打にけり監物以下の城兵土手に伏而鐵砲を避る時に佐方治郎助鐵砲を以どてへ上り敵一人を打取玄旨の家士突半助に向てあれ見よといへば半助鐵砲を以敵を打つぶす佐方見たるかいへば又治郎助敵一人討倒す半助又鐵砲を取て立上らんとする時の鐵砲に當て命を損す、やゝ有て敵又寄來るべき様子により孝和玄旨家士杉山勘之進に向ふて我等が鑓の柄長ければ足下の鑓と取替て得させよといふ勘之進同心せず、我等手なれたる鑓なれば御免有べしと返言せしに孝和が曰く足下其鑓にて高名を顯し敵の血を鑓に付すは後日に男を立させ間敷といふ所に鐵砲に當て死す孝和勘之進が鑓を取て其死骸を下人に渡す、かゝる所に藤掛三河守家士小石新兵衛先途して孝和と鑓を合す數度戰ひて小石既に引色になる、然れども大勢相續て寄來るにより孝和主從玄旨の軍士等命を捨てふせげども大敵なれば終に砦を攻破られて引退く、孝和此時まで返し合せて敵を防ぐ折節大瀬堪へて畷の上により上りければ敵是にためらふ時油語彦兵衛味方に下知して敵を折返す。孝和此時かぶと傾きければぬぎ捨んと思ひけれども後難を思ひ鑓に取添て挽旋しけるに幽齋櫓より是を見て孝和退くに苦勞して退くと見えたり助よと有るより貫井藤之助芭蓮の大指物にて馳來りしかば敵是を見て彌攻口を引退く、

丹後舊事記・巻之五から(9)「田邊城攻の事」(五) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・攻軍程なく外郭に竹束を附寄本城を乘らんとする所に兼て稲富伊賀が傳を受たる鐵砲の巧者矢狭間に控へしが矢頃能成程こそ有透間もあらず打出しければ寄手の死骸數を知らず附寄たる竹束をば火矢を放つて焼立るにより敵兵城邊に忍び兼て引退くかゝりければ城兵彌進色をなしける、又寄手の諸將の中に織田上野介川勝右衛門尉山名主殿頭毛利勘八郎杉原伯耆守小出大和守山崎左馬允生駒左近等は内府公御とがめを憚り又玄旨の一筋なる覺悟を感じて玉なしの鐵砲を打せて日を送り程を經て八月下旬越中守忠興幽齋へ飛脚を馳て岐阜の城落城したりと告る。玄旨此節儀として三刀谷代下の輩を饗應有其席に於て玄旨申されけるは此度孝和籠城にて勲功を立られし事比類なし越中守内府へ對し戰功あれば内府定て丹波國を越中守へ與へらるべし然らば彼國に於て上杉梅谷上林山家四ヶ所凡一萬六千石孝和に揚申さんと有ければ孝和は這般の軍功を内府公へ申彼御家人となし申さんと居べきを左なくして斯申さるゝは本意なき事と思ひさのみ執着せざりしを彼が顔色を見て是は玄旨が隠居の寸志なり越中守計らひ有んと挨拶せらるゝなり。天下治りて後豊前にて一萬石孝和へ與へられければ孝和病気と號して豊前國を退き龜井武蔵守常に懇切成によつて因州へ至り其領地に蟄居せしとかや。去る程に小野木縫殿介諸將を招き此の城俄に落ちがたし然らば四方の通路をさへぎり味方堅固に陣せば程なく粮盡力盡て終に軍いさおあるべし怠りなき様に下知有べしと各戒む、・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  田邊城における細川方の戦いは、三刀谷孝和監物の働きが大きかったことは言うまでもない。  当事者である幽齋の評価は甚大であったようだが、忠興と孝和の関係はあまり詳らかでないような気がする。  一萬石も拝領しながらなぜ豊前を離れたのか、少々疑問がのこる。  島根県雲南市に「三刀谷史談会」があり、ここから「三刀谷三刀屋監物孝扶・佐方地頭」という小冊子が発刊されいる。  (手に入れたいと思うが現況希望がかなっていない)  しかしながらその内容はサイト「みやざこ郷土資料室」というものがあり、ここで粗方を知ることが出来る(感謝)  是によると、なぜ三刀谷が田邊城に駆け付けたかについては「八条宮智仁親王は、親交のあった安国寺恵瓊を介して三刀屋孝扶(孝和)に救援を命じた。  孝扶は一族郎党五十五騎を率いて田辺城に入った。」とある。細川家資料では伺えない記述である。  またその後の孝和の待遇その他については、「忠興は孝扶の武功に対して三万石を与えると言ったが、孝扶は(孝和)はこれを断った。」とある。  その結果としてここに記されるように又細川家資料に依るように一萬石となったのであろうか。その後は豊後をはなれて、京都の吉田山に住んだとされる。  また八条宮智仁親王の依頼により、後醍醐天皇の息女瓊子内親王が開山であり、八条宮の孫妹が住持である伯耆国の名刹安養寺(米子市)の警護をしたと伝わる。  のち江戸へ出て88歳で没しているが、葬られた場所は細川家も縁が深い東海寺である。因縁めいたものを感じるが如何であろうか。

在初期,因為西軍相對細川留守部隊有巨大優勢(15000VS500.....),所以西軍希望能速戰速決,也因此前期田邊攻防戰其實是頗激烈的......留守方武將有數名戰死......

有意思的是,三刀谷孝和曾經是毛利家手下,因為在高麗蔚山有戰功,獲得毛利秀元賜刀,可是諷刺的是她卻要拿這把刀對陣曾經主君.....

因為三刀谷等人英勇奮戰,藤孝竟然能以1/30的兵力牽制西軍長達一個月餘

後來忠興為了感謝他打算給他一萬石(在細川家內部除了親族外,也只有松井有吉米田等重臣才能拿到一萬石以上),可是他以自己只是義氣相挺不需要俸祿為由拒絕

考慮到他的功名心其實很強(在朝鮮因為渴望戰功英勇奮戰,可是毛利家卻沒有給予他希望得到的報酬,這也是他在田邊會支持細川的原因),會拒絕忠興的好意頗為奇怪(1萬其實也不低了),有可能他不想離開老家太遠吧(他老家在中國地區)後來他活到88歲,是非常長壽了,他葬在與細川家關係深厚的東海寺,果然還是有革命情誼

關於麝香在田邊城的功勞,兼論一些史料可能被誤解的地方

麝香在田邊城的事蹟來自於細川家記,如下

寄せてきびしく攻め候へども、元より御覚悟の上なれば、少も御憂うれいなく、折に触れて、御詠歌など遊ばされ、或は諸子に天理を諭さとして、義を勧すすめ、御愛憐ごあいれん深く坐ましまし候間、各おのおの一図に思い定め、下卒に至る迄、一人も臆病を振り廻す者なし、扨さて光寿院様も御具足を召、夜廻りなされ候て、士卒に御心を付けられ候、又寄手の内に、城中へ志を通じ、玉なしの鉄砲を打つなどしたる方の昇の相紋を、城内にて記し置かれ候も、光寿院様なり、相紋の御心遣、女性の御身にて名誉なる事と、諸人感じ候なり、この昇りの印を、家康公へ忠興君より、御目に懸けられ候故、小出、藤掛、谷、川勝等、身体別条なかりし也

基本上在關於麝香的紀錄上有幾個重點:1麝香(就是光壽院)穿著裝甲四處巡邏(而且是前線,後面的記載就是證明)並激勵士氣,可以說她就是代表城主(藤孝)前往前線的人2(重點)外面有些部隊(小出、藤掛、谷、川勝等)"與城中意志相通"以空鐵炮為信號3麝香看到後把那些發空砲的部隊都記錄下來,後來那些部隊事後都逃過清算(至於中間那些發彩虹P的就看看就好)

其中第2點常常被引證為"西軍圍城部隊都沒戰心,所以藤孝守城很輕鬆"的依據.....這不能說完全錯誤,可是卻是以偏概全......首先"發空砲"的只有4個部隊,其他的都還是有繼續參與圍城作戰(其中有些戰鬥甚至有甚大死傷BY三刀谷紀錄)

其次,發空砲的其中之一小出吉政在前期其實作戰算是積極,可是後來卻變的消極,可見得是圍城過久導致士氣衰落.....(所以說圍城部隊擺爛這說法是很不嚴謹的......因為圍城太久不僅耽誤戰機且後勤消耗巨大,光是士氣就會急速衰退....)

而最值得玩味的其實是這句"又寄手の内に、城中へ志を通じ"("與城中相通"),考慮到圍城部隊與守城部隊處於敵對關係,若不說他們與麝香有心電感應,必然就是他們其實事先已經串通好了(也就是間諜戰中的"策反")

這其實從麝香能識別"空鐵砲"就能得知,若不是事先商量好,她眼力再好又如何能判斷打出來的是否有子彈呢(萬一有子彈她豈不是就危險了),又是如何能知道"XXX是發空鐵砲的"並且做好記號呢(所以"空鐵砲"很可能其實是城外的"25仔"用來洩漏城外布陣位置的手段)

沼田麝香在整个围城战中发挥了重要作用。到了晚上,她会穿上盔甲,巡视那些值班的人,以振奋他们的精神。她还绘制了那些敌方单位的阵图,還命人要么往高处开火,以免击中任何人,要么只使用火药而不使用火枪弹

朝廷的調停與結局

丹後舊事記・巻之五から(10)「田邊城攻の事」(六) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・爰に前田徳善院は去年より在京せしを頃日禁中へ召出され細川玄旨の秀頼へ對して疎略なき趣分明なり其子越中守玄蕃頭秀頼に叛くとも是又父が素意ならんや、然るを天下の爲めと號して這回し兵卒を動す上罪なき玄旨を征伐せば誰か暴逆の甚敷をにくまざらん幽齋も又強て一城に楯籠は自秀頼をないがしらにするのそしりあらん。次に古今和歌集の傳受當時幽齋一人なり、かれもし計らざるに命を潰さば數十世の傳來永く絶て偏に和歌の衰となるべし、是に依而宸襟を惱まし玉ひ彼古今集を召上られ此間叡覧有つれ共口釋なくしては分明ならぬ所ありて此の書有共無が如し然らば双方和睦して幽齋再び都へ上り此集の流を世に殘さば叡感いかでか淺かるべき幸ひ玄以は日頃内府に親み深く又秀頼を餘所に見るべき者にもあらねば樂に玄以が辭を信じて和平せん事疑なし急ぎ此こと思慮を廻らすべしと勅諚有り、雲以法印勅命を蒙りて朝廷を退き急に丹後へ人を遣し勅諚違背しがたき事あり城中攻軍矢止を相互にせらるべしと云遣し其身は直に大阪へ下り廣島黄門と益田長盛とに逢て勅命を領れば丹後へ軍使を馳て諸將の圍をとき幽齋恙なき様に御下知有れかしとときければ輝元長盛兩人共に勅命更に背きがたしさりながら備前中納言石田長束方へ此趣を云遣し重々御自分まで内談すべしと有により徳善院は歸京せらる。五六日過て徳善院方へ右兩人より使者を登せ先日仰聞るゝ趣何れ共我等と同心なり但し和睦の古法なれば幽齋丹後の國中を退き四ヶ所の城には小野木公郷指図して番部を置べき旨貴殿の所存に随ひ此より啓付すべしとなり。玄以法印仰せられけるは宮津峯山久美の城は籠城の始より捨置たれば其以違亂をいふべきやうなし田邊の城を小野木に渡し剰へ領地を退かん事貴殿明聞せらるゝことども幽齋同心なかるべし然らば田邊の城番は渠が部の者に申付てはいかが候べき重て御差圖を受べしとなり、使者大阪へ歸て此旨を申ければ兎も角も宜敷様に流説せらるべしと有に依而勅命の趣を其以自筆書面認め次に自分の口簡を使者の口上に言含め幽齋へ異見せらるなれども暫く同心無量なるに冨之小路中院両卿を勅使として急ぎ城を開くべきよし、勅命有幽齋背き難きに依而終に田邊を退去有是に依而前田主膳正彼城の在番を勤む、攻軍の諸將は九月十二日に田邊を歸陣せられしとかや。扨幽齋は田邊を出て丹波龜山の城に滞留して其後京都へ登り吉田の随神庵に暫らく居住せられければ貴賤親疎の限りなく聲問る人多き中に先日光廣卿へ玄旨歌書を授けられしに光廣卿其書を深く収めいまだ見玉はざりけるが此時返玉ふとて

明 て 見 ぬ 甲 斐 も あ り け り 玉 手 箱        二 度 か へ す 浦 島 の な み    浦 島 や 光 を 添 へ て 玉 手 箱        明 け て た に 見 す 返 す 波 か な       玄 旨

藤孝被西軍圍攻的消息在8月中傳到京都朝廷(傳達者是北村甚太郎,很可能就是藤孝老頭故意放消息的),朝廷聞訊後大驚.......不僅馬上派使者像豐臣家"嚴厲警告"絕對不能讓藤孝出事情.還馬上派使者與五奉行之一前田玄以之子茂勝的使者一起進入田邊城與藤孝講和,可是幾次藤孝都以"武士尊嚴"的名義拒絕(藤孝是擺明故意拖時間了)

西軍就這樣在既不能打(萬一真的把藤孝打死就完蛋了)又不願意輕易離開的情況下又多浪費1個月......

(所以後來三成在寫給昌幸的信中就大吐苦水說朝廷介入搞亂他的計畫......)

在朝廷那,天皇非常憂鬱,終於決定親自出馬,立刻發布諭令讓雙方講和,因此在9/13藤孝終於開城(而且既不是投降,城池也是交給前田茂勝而不是主將小野木),並在茂勝的護衛下前去丹波龜山城(真有意思阿,這不正是好基友禿頭曾經的城池嗎2333不知藤孝老頭進城後會不會懷念曾經的革命情誼,又會不會內疚沒幫助基有害他命喪山崎......)

結果這樣又拖了將近一星期......

等到終於安置藤孝老頭完畢,已經是9/19.......那時候不僅關原早就打完,忠興的復仇部隊都已經在回家的路上,殺氣騰騰.......

結果這些西軍遇到忠興部隊一觸即潰.....

甚至包含副帥前田茂勝等人馬上倒戈.....結果小野木不敵退到自己的城福知山城,最後在忠興的逼迫下自盡.....(本來家康與茂勝求情,結果忠興不許.....)小野木的妻子(即島左近的女兒)後來也跟著殉情......

外傳:另一個勇敢的女性:細川首席重臣松井康之之妻沼田自得院

提一下這位松井家的女家長自得院

松井康之正室・自得院,生1560~没1641。若狭熊川城主、沼田光長(麝香大哥,是13代將軍義輝的奉公眾之一,在永祿之變與義輝一起壯烈犧牲……所以自得院也算是烈士遺孤……)の娘で沼田麝香(細川藤孝室)の姪にあたる。永禄12年(1569)、藤孝の養女となり、康之と縁組をする。『松井家先祖由来附』によれば、藤孝は康之を手許に留め置くためにこの縁組を整えたとされる。(目をかけすぎてて震える)

康之と自得院の結婚生活は43年に及び、興之/興長/いと/たけ の二男二女をもうける。康之没後に証人(人質)として江戸へ行き、死去するまで江戸で暮らした。康之の長男、与八郎興之は生1576~没1593(在朝鮮犧牲……)。康之26歳、自得院16歳くらいの時の長男か…勝龍寺城に居た頃に生まれている。

沼田自得院與姑姑麝香共同點蠻多的23333都是嫁給大10歲的老公,都是一夫一妻,都很長壽(自得院長一點,活了81歲),而且都很有智慧

細川家在丹後期間,把最西邊的久美濱城交給康之管理,後來康之奉命管理忠興在九州的飛地杵築,久美濱城就交給忠興養父輝經代守,而松井家人也都在久美濱城。

在藤孝緊急命令細川家人撤退到田邊時,位於最西邊的久美濱城因為離田邊城最遠,而且因為輝經的叛變,導致西軍得以長驅直入西丹後……(是不是頗像糜芳.......)眼看松井家人即將落入西軍手中,自得院臨危不亂,不僅成功把松井家人(其中包含自己二子興長之妻——也就是忠興女兒古保)帶出去,自己也成功與兩名家臣一起逃到山中,避開了西軍的追捕。

如果松井家人落入西軍之手,不僅會影響到遠在九州的戰役(在幾乎同時西軍已經開始勸誘康之倒戈……),甚至也可能影響到田邊戰事或是主戰場……可以說自得院再次挫敗西軍的人質計畫

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